邂逅の回顧録 ~A Retrospective of an Encounter~
今回はちょっと閑話休題的に、「僕とインプロとの出会い」について、以前に書いたblogをリライトしてお届けしようと思います。
これが僕の原風景の一つで、その後のインプロへの取り組みへを、ある意味方向づけたものとなっています。
それでは、ご笑覧ください。
インプロとの出会い
僕がインプロに初めて出会ったのは、新卒で入社した外資系の人材アセスメント会社を1年(3月末)で退社し、次の年度から通うことにした俳優の養成所ででした。
当時は今から大体20年ぐらい前なので、インプロを扱っていたのは非常に先進的でした。またこの養成所はインプロの他に、メソッド演技術(NYのアクターズスタジオのあれです)〔と、海外の演技術?をもう一つ〕を扱っていて、「世界に通用する俳優を育てる!」みたいな触れ込みだった記憶があります。
当時はバイトをしながら、週5~6で養成所のレッスンを4時間/回ぐらい受けていましたから、もう本当に芝居づけな毎日を過ごしていました。
その養成所でのインプロのレッスンは、今でいう「インプロ・ゲーム(含むシアター・ゲーム)」をそこの講師の理解の元、やり方の説明を受けては、どんどん色んなものをこなしていく感じでした。
ただし、このときはいわゆるインプロの哲学(orマインド)の説明もありませんでしたし、一緒にやる仲間も、これから表現の世界で生きていこうと志す面々だったので、
みんながみんなではないにせよ、やる気のあるやつらは特に、往々にして「面白いことをして目立ってやろう」だったり「なんとかして爪痕(印象)を残してやろう」というスタンスでインプロのレッスンを受けていて、僕もそんなスタンス(むしろ筆頭に近い?)で挑んでいました。
それはそれで楽しかったし、そもそものこの養成所でのインプロの位置づけが、あくまで脚本のある演劇での芝居をする際に「より活き活きと柔軟に演技ができるようになるための有用な手法」だったので、致し方なしかなぁとは思うし、
その経験を経たからこそ見えたり分かったりすることもあるので、今では必要なプロセスだったかなぁと思えています。
そして、そんな養成所でのレッスンを受けていて、僕にとって衝撃的なことが二つありました。
衝撃を受けたこと、その1(優等生、現実に気づく)
まず一つ目、それは「とある台本の一場面を読み込んできて、みんなの前で実演してみる」というレッスンでの、
当時の講師の「へちゃの演技は”優等生の演技”だな」という言葉でした。 ここでいう「優等生」とは決していい意味ではなく、むしろマイナスな意味の言葉です。
どういうことかというと「セリフはしっかり覚えている」「演技のプランもしっかり脚本に沿ったものを用意してきている」「その演技が成立し、脚本を表現するのに適したキャラクターづくりをしている」けど、『それを独りでやっている』でした。
正直、それの何が悪いのか分かりませんでした。むしろ、相手役はセリフをまだ覚えても来てなければ、脚本の理解も浅いし(というか、自分の出番だけを読んできていて、全体を把握していない)、キャラクターだってブレブレでした(少なくとも僕にはそう思えました)。
それなのに、講師に注意されたのは僕の方でした。「え?なんで?俺はやることちゃんとやってきてるのに?むしろやってきてない相手役の方がダメなんじゃないの?」と思っていたら、次の言葉で意味が分かりました。いわく…
「へちゃは相手が誰だって、どんな演技をしてきたって、今と同じことをするだろ?自分で作り込んできたことを。でもな、演技ってのは”相手ありき”なんだよ。相手とのやり取りから生まれてくるものなんだから。へちゃのやってることは相手がいないの。だからへちゃのやってるのは演技じゃなくて、”プラン”なんだよ。そこからはリアリティは生まれない」でした。
僕は当時、この”台本の実演”のレッスンは、「発表」の場であり、如何に用意周到に準備してきたか、そしてそれをブレることなく完遂できるか、という「自分の優位性を示す」場と位置付けていました。
しかしそうではありませんでした。そこは、共演者がどんな状態であれ、”一緒につくっていく「創造」の場”だったのです。
それまで、演技、特に舞台での演技では、公演ともなれば、何度も同じ演目を上演するわけで、回ごとに内容が変わって(ブレて)しまうことは、観客に対する公平性を欠くものだし、望ましいのは回が違っても同じ内容のものを観客に提示できることだと思っていたので、
そのブレがなるべく少なくなるように、全員が稽古を重ね、公演中は同じ内容のことを”あたかも今まさに起きているかのように”演じられることが至上だし、そのためには高いレベルで作り込まれたものを精密に再現することが必須、と考えていましたが、
それは結局、”優等生的な考え方”だったようです。
確かに、上記の考え方はある意味では間違いとまではいえないけれど、それだけでは不十分で、各回の内容を高い水準で標準化しながらも、その上で「舞台上でその時にそのキャラクターたちで、その場を感じ取りながら、有機的なやりとりをすることでリアリティが生まれる」それなくして『息をもつかせぬ、まばたきも出来ない演劇』は成し得ない、とのことでした。※『』はこの養成所で目指すもののフレーズ
「そうか、自分ひとりが為すべきことを為すんじゃなくて、相手(みんな)と一緒に、その場にいて、そこから創り出していくことで、成していくものなのか…」と気づくと同時に
「でもそれって、取り扱う変数に自分で制御できないことがすごい混じるし…やってこないやつ(=当時の僕の認識ではダメなやつ)の面倒もこっちがみないといけないってこと?それって理不尽じゃない???
……でも…現実も確かにそうだな。だからこそ、そこにリアリティが宿ったりするのかな?」と、なんとも稚拙な解釈をしたものですが、
それよりもなによりも、なぜか良く分からなかったのですが「なんてチャレンジングで、ワクワクするんだ…これは取り組む価値を感じる!」と、僕の中で飼い慣らされて眠っていた荒ぶる野生がムクムクと起き上がってくるのを感じていました。
衝撃を受けたこと、その2(原動力を得て夢想に向かう若者)
そして二つ目は(もう既にちらっと書いてますが)、このインプロという手法は、この養成所では、脚本のある演技をより活き活きと柔軟にするため、という位置づけでレッスンをしているため、それに必要な部分だけをピックアップしているに過ぎないが、
欧米ではしっかりと体系化された手法として確立していて、「極めれば、脚本がなくてもその場で1本のお芝居ができる」という説明でした。
それを聞いたときは「え!?なにそれスゴイ!!もうそれって人類の英知じゃん!?」とやたら興奮したことを憶えています。
養成所に通っていた当時、講師の刷り込みもあったのか、俳優の力が本当に試されて、誤魔化しがきかないのは舞台演劇であり(映像は見てくれが良ければカメラワークと編集次第で、演技が下手でもなんとかそれなりに仕上がる、とのこと)、この世界に飛び込んだからには、自分が目指すべきものは舞台俳優だ、と思ってはいたものの
一方で、元来、舞台というものは、非常に時間と労力がかかるもので、その割に利益はほとんど見込めないし(やり方はあるでしょうが)、生き馬の目を抜く猛者たちの世界で抜きんでることは可能性として非常に低く、じゃあどうやって食っていくために稼いでいくのか、ということに頭を悩ませていた僕にとっては、天啓を受けた気がしたものです。
しかもまだ当時は、インプロ自体の知名度が日本においては無いに等しいものであり、これをいち早く身につけて公演を打てば、話題性も高いだろうし、しかも毎回違う内容になるんだからリピートも見込みやすく、その分、通常の舞台演劇よりも利益が見込めるのではないか?との算段がありました。
さらに当時の浅はかな知識でも、その頃やっと日本で話題になりつつあったコーチングという手法との親和性も高いし(CTPのプログラムを50万払って受けてたりしました…)、コミュニケーション能力の向上といった名目で、ワークショップなんかを開けば、公演以外での収益も見込めそうだ!なんて夢想していました。
しかし、肝心のインプロの体系化された手法を、どこで身につければいいのか分かりませんでしたし(ネット全盛の今とは全然違う状況でした)、まだ20代そこそこの若造が、たかが養成所を出たばっかりで、何ができるとも思いませんでした。
そこで、2年間の養成所期間を終えた後に、インプロの手法を更に学ぶため、そして年齢の若さを箔をつけることで補おうと、海外に1年間の演劇遊学をしにいこうと思いたち、鴻上さんのドンキホーテのロンドン?『ロンドンデイズ』の愛読者だった僕は、かのシェイクスピアを生み、憧れのシャーロック・ホームズの舞台でもある、英国はロンドンに赴いたのでした。*1
余談ですが、当時の滞在記録を、今はなき?ホームページビルダーで作成しては公開しており、そのタイトルの一部には「へっちゃLIVE」という言葉を入れていて、結構気に入っていました。
それが今日のへっちゃらんど構想、へっちゃらインプロなどのネーミングの元ネタだったりします。
次回は、上記の原体験もあり、今では僕にとって欠かせないテーマであるインプロの「共創」あるいは僕のインプロのおけるこだわりについて書いてみようと思います。
その次か、そのまた次ぐらいに、以前に予定していた
インプロは適切に活用されれば、人の変化や発達に大いに寄与するチカラがあるとい うことである。ここでいう適切にというのは、以下2つの要件を満たすものと考える。
1.インプロにおいて大切な心構えが浸透し、体現(あるいは、体現しようと)されている場である
2.指導者が対象者の状態を見極め、狙いに応じて適切なインプロ・ゲームを提示し、意図を持った説明ができる
への考察に戻ってくる予定です。
*1:この先の、へっちゃら演劇留学編もいつか書き起こしたいです。