その不確定性こそその真髄か?

 

最近、僕には悩んでいることがあります。それは、「インプロ・ゲームってなんなんだろう?なにをして、インプロ・ゲームと呼ぶんだろう」ってことです。

 

というのも、いろんなところで見聞きする「インプロ・ゲーム」なるものが、「え?それもインプロ・ゲームなの?」と思うことが多くなってきているからです。

 

今回は、このテーマについて、僕の遭遇したエピソードから始めて、僕なりに、ちょっと考えてみようと思います。

 

 

エピソード①

※個人の名誉のために(?)少し話を改変しています。

 

これは以前に僕が「コーチングやファシリテーションに活かすインプロ」というワークショップをしたときのお話です。

 

この時は「コーチングやファシリテーションにインプロが良いって聞いて、いくつかインプロのワークショップに行ったんだけど、なんかムチャぶりされたり、奇抜なことさせられたりで、思ってたのと違った。インプロってそういうもの?違うよね?ちょっとちゃんとした(?)ワークショップやってくれない?」みたいな依頼でした(笑)

 

聞いた話からの憶測ですが、業界的に(ワークショップを自分で企画運営する人は、自己研鑽と同時に、自分のコンテンツのヒントになるネタ探しに、よく他のワークショップに行くことが多いです)、多分どこかでインプロ・ゲームを齧った人(あるいは齧った人から齧った人)が、ゲームのやり方だけを知って、それを自分のワークショップの一部に組み込んだのをさせられたんだと思います。

※もう10年以上前の話なので、まだ今ほどインプロが認知されていなかったので仕方ないかなとも思います(今もインプロの認知度は…ですが…)

 

そんななので、その苦い経験を払拭すべく、そしてインプロの楽しさを知ってもらうべく、極力、心理的抵抗が生じないようにワークショップをデザインしました。

デザインの意図としては「なじみのあるものに近しい内容のものから入り、徐々に自分の中にあるものを表現することにも慣れてもらって、その上で、他者のそれを受け取りながら共同して積み上げていき、気づいたら、この場にいた人たちが、それぞれでは想像してなかったことが創造されている!なにこれ不思議!?…楽しい!!」ってなりつつ

「インプロそのもののだけのワークショップにならずに、インプロのエッセンスは残しつつ、きちんと対象者に活きるラーニングポイントはしっかり含まれていて、かつそれを楽しみながら体験学習できる」ともなれば大成功って感じでした。

(結果的になかなかな反響を受け、その後、継続化していくことになりました)

 

で、そのワークショップの導入としてウォーミングアップ的に、とあるファシリテーション手法の本に載っていたアクティビティを使ったのですが、後日聞いた話では、その人は自分のオリジナルワークショップのコンテンツとして、それをインプロ・ゲームとしてメニューに組み込んでいたそうです。

(余談ですが、その人は、他のインプロ・ゲームも自分のコンテンツとして使えるものがあったらどんどん盗むつもり、とワークショップ中に言っていましたが、僕のファシリのスタイルは、特に一般の人が多い場合は、サイドコーチ*1(なのかすらも分からないつぶやき的なものも含め)を頻繁に入れて、参加者がどんどんノっていくようにする感じなので、これはマネ出来ない…と諦めたようでした)

 

と、まぁここまでは良くありそうな話なのですが、これには後日談がありまして…

なんと、ある時にインプロ界の大御所(?)的な人のインプロのワークショップに行ったときに、そのアクティビティがインプロ・ゲームとして紹介されていたのです…。

しかも、こっそり聞いたら、他のワークショップで知ったのを良いなと思って今回使用したとのこと(使い方は僕が先に述べた際の時とほとんど同じでした)。

(ここまで書いて、また怒られそうな気がしてきましたが、まあ勢いなんでこのまま残します…)

 

良く「インプロ・ゲームは今では数えきれないほどあり、今日もまたどこかで新たなものが生まれ始めている」とは言われますが…

なんとまあ、インプロの節操のなさ懐の深さよ…。

 

インプロ・ゲームって、なんなんだろ…。

 

エピソード②

二つ目のエピソードは、先のものの後に紹介するにはインパクトに欠けるのですが、これは、とあるインプロのワークショップに行った際のことです。

※こちらも個人の名誉のため(?)に多少、脚色してあります。

 

このワークショップの触れ込みとしては、「スポーリンのインプロ」とかだったと思います。

手前味噌ながら、僕もViola Spoinの洋書は4冊ほど持っていまして(日本語の『即興術』ももちろん持ってます)、仲間内では僕が解読した内容を元にシアターゲームをしたり、どこかのインプロのワークショップでは、ふわっとシアターゲームがインプロ・ゲームとして紹介されていて*2、シアターゲーム自体は、その質はどうあれ、一応の経験はありました。

 

このとき僕は「ふむふむ、スポーリンのシアターゲームでなくて、インプロなのか!どうアレンジされたものが待っているやら…これはあれかな?息子のポール・シルズとともに、コンパスからセカンドシティへの流れを踏まえた、そこら辺の内容的なやつかな?…これは楽しみだわい」と思ってワークショップに向かったのですが…

 

そこでインプロ・ゲームとして紹介されていたのは…完全にシアターゲームでした…。

 

しかもそこのファシリテーターの人のテーブルには以下の二冊に付箋がついて鎮座ましましてました…。

 

 

まぁ…確かに、この二冊は使い勝手がいいけども…いいけれども!!!

 

ただよくよく考えてみれば、Viola Spoinの集大成ともいえる(?)この本は「Improvisation~」な訳だし、ワークショップの内容自体は丁寧にじっくりやれたから、それはそれでよかったから…と一応は自分を納得させることにしましたが…

 

 

でも…「スポーリンのインプロ」かぁ…

 

インプロ・ゲームって、なんなんだろ…。

 

 

インプロ・ゲームじゃないもの?(個人の見解です)

とまあ、ここまでの話を読んでくださって「なんかそんなのどうでもよくね?」って思っている方が大半かと思います。

 

まあ、それはそうなんですけど、なんかモヤモヤするんですよね…。

 

で、このモヤモヤは多分、僕の中に「こういうのがインプロ・ゲームだ」ってのがぼんやりとあるんだと思うんですけど、「じゃあそれは何かはっきり言ってみろ!」と迫られると、「えっとそれは…」と途端に、思春期に憧れの人に街中でばったり居合わせたときのようにモゴモゴしてしまうのですが…。

 

ただここで思考を切り替えて、逆に「どんなものだとインプロ・ゲームと僕が感じないのか?」を考えてみれば、なにか見えてくるものがあるかと思い、ひとまず過去の記憶をさかのぼって、なんか違うなぁと感じたものを3つくらい思いつくままに挙げてみますと…

 

①不確実性が低く、やる前からやったらどうなるかが見え見えで、実際にやっても、その予測の範疇を出ない結果と体感しか得られない

 

②遊びどころが少なく、ファシリテーターが持って行きたい目標が見え見えで、それをこなすタスク化している

 

③なんか、やってる人たちや場の雰囲気がかたくて、重力が心なしか普段よりも重く感じる(興じられてない)

 

これらのいずれかあるいは複数が当てはまるものに遭遇した時に、僕は「あれ?これってインプロ・ゲームの体を成してる?」って感じる気がします。

 

ただこれって、インプロ・ゲームとして提示されているものの仕組みの問題というよりは、それの扱われ方/行われ方と捉えた方が、しっくりくる内容ですね…。

 

なんだろう…やっぱりインプロっていうからには、以前に書いたことは必須要件であってほしいし

(↓これです)

 

インプロ・ゲームって言った場合の「ゲーム」は、僕としては「遊戯」のイメージがあって、「遊んで戯れる」って要素が抜けると、なんか違うと感じるっぽいですね。

 

となると、どんなアクティビティでも、その扱われ方/行われ方で、インプロ・ゲームに成り得るし、逆に、いわゆるインプロ・ゲームとされているものも、インプロ・ゲームではなくなるってこともあるってことになるのかなぁ…。

 

そうすると、エピソード①でのワークショップ開催の依頼をされた経緯およびその後の継続化にも少しうなずける気がしてきました。

 

…てことは、僕が夢も希望も満ち溢れていた童だった頃に、飽きもせずに何回も遊んだ「だるまさんが転んだ」もインプロ・ゲームって言えたりするってことになる?

 

いやそれは言い過ぎか…でも、けっこうあの遊びにはインプロをしていく上で重要な要素がてんこ盛りな気もするから、あながち言い過ぎでもないのか…???

 

アナタはどう思いますか?ぜひご意見をおきかせください!!

 

インプロ・ゲーム足りえるもの?(個人の見解です)

ってところで終わると、「それはHowであってWhatじゃないじゃん」って声が聞こえてきそうですが、僕としてはこのHowこそがインプロ・ゲームを規定する重要なものというのが、今のところの見解です。

ただ、これだと、なんか素人の戯言みたいだし、煙に巻いてる感も若干感じるので、これを書きながら、「そういえば昔こんなこと考えたなぁ」ってのをここでシェアしたいと思います。

 

これは、僕がイメージしているインプロをしていく際に「こんな筋力(インプロ筋と勝手に呼んでいます)があると良いよ」という項目を、僕の基準で(いろんな洋書を参考にしながら)ある程度の網羅性をもってカテゴライズしたものです。

 

ここにあることが(最低一つだけど、だいたいは複数を満たすものが多い)楽しみながら鍛えられたり引き出されたりするアクティビティのことを、僕としては、狭義での、いわゆる「インプロ・ゲーム」と見做しています。

『ゲームで鍛える/呼び覚ますインプロ筋』
 ≫ 相手と繋がる(イエスとアグリーメント
 ≫ 瞬間に居続ける(ヒア&ナウ)
 ≫ 無理なく自然に軽やかに(スポンタナティー
 ≫ 環境を作り、物を扱う(オブジェクトワーク)
 ≫ 力関係の把握と変化(ステータス)
 ≫ 意図を持った選択をする(アクティブチョイス)
 ≫ アイデアを紡ぎ、物語を語る(ストーリーテリング
など

 

言い訳みたいですが、僕の知る限りでは、明確にこれが「インプロ・ゲームだ」という定義のようなものは、ほぼなくて、インプロをやっている人たちのなかで、だいたいの共通認識はあるとは思いますが、それでも具体的に詳しく聞いてみると、多少のズレ/ブレは出てくると思います。

 

何処かでも書いた気がしますが、インプロはその系譜も含め、誰から習った/を参考にしたか、あるいは習った/参考にしたものの中で、なにを取り入れたか、によって、流派のようなものがあるのが実情です。

 

このこともまた、ズレ/ブレの一因になっていると思われます。

 

ちなみに、この本もインプロ・ゲームをカテゴライズ(Bonding/Focus…など)していて、その中には「パーティーゲーム(Party Games)」というカテゴリーもあります。

※「パーティーゲーム(Party Games)」の説明から一部抜粋

These games are fun. They are fun party games that can be played recreationally.

これらのゲームは楽しく、レクリエーションとして楽しめるパーティーゲームです。

という感じで、特にインプロで活用される要素が鍛えられ/引き出されなくても、この本の中では、インプロ・ゲームとされています。

*3

 

そんなこんなであやふやなまま、今日もまた、インプロ・ゲームは増え続けて行く訳です…。

 

おまけ

さて、ここでまた宣伝チックになってしまいますが、初歩の初歩の広義でのインプロ・ゲームについては、過去にこんな動画集を作っていました。

全部で100個(各再生リストに50ずつ)ありますので、「具体的にインプロ・ゲームがなんのことか良く分からん」という人は、ぜひ参考にされてください。

※現在は「インプロsalon」の活動は休止中なので、Twitter等はやっていません…
(FBページはこのblogの告知等をかろうじて行っています)

 

 

 

*1:ゲームをしている最中に行うファシリテーターからの声掛け

*2:マイズナーのレペティションもどきもインプロ・ゲームとして紹介しているワークショップもありました

*3:細かいことを言うと、このカテゴリーのゲームはしばしば、Bondingのゲームとなるとも記載されています。

自意識との戯れ方?

さて今回は、前回のポストのおまけ的な内容です。

 

↓前回のポスト

hechapprin.hatenablog.com

 

前回のポストで以下のDel Closeの智慧(?)に関して、僕がもう少し取り上げたいことがあったので、それをここで取り扱いたいと思います。

 

↓Del Closeの智慧ってのはこちら(詳しくは前回のポスト参照)

「デルの<ハロルド>における一般原則(Del's General Principles for the Harold)」

・あなた達は、全員が、サポートをする俳優である。(You are all supporting actors.)

・常に自分の衝動に気を配ること。(Always check your impulses.)

・”必要とされ”ない限り、決してシーン〔場面〕には入らないこと。(Never enter a scene unless you are

NEEDED.)

・共演している俳優を救うこと。作品については心配しないこと。(Save your fellow actor, don`t worry about the piece.)

・第一に為すべきことは、サポートをすることである。(Your prime responsibility is to support.)

・いかなるときでも、知性の限りを尽くすこと。(Work at the top of your brains at all times.)

・観客を過小評価したり、見下したりしないこと。(Never underestimate or condescend to your audience.)

・ジョークは不要(ジョークだと明言されている場合を除く)。(No jokes (unless it is tipped in front that it is a joke.)

・信頼すること...仲間の俳優があなたをサポートしてくれると信頼すること。彼らに重荷を負わせたとしても、彼らはなんとかすると信じること。自分自身を信頼すること。(Trust... trust your fellow actors to support you; trust them to come through if you lay something heavy on them; trust yourself.)

・起きていることの判断を避けること。ただし、(シーンに登場するか、シーンを終わりにするか、による)助けが必要か、次に続くのは何が最善か、あるいは、もしサポートが求められたら、どう想像力でサポートできるかは除く。(Avoid judging what is going down except in terms of whether it needs help (either by entering or cutting), what can best follow, or how you can support it imaginatively if your support is called for.

・聴くこと(LISTEN)

 

※何度か出てきているこちらの本からの引用です(日本語訳は僕です)。

 

ここで、一番初めにあるのが

・あなた達は、全員が、サポートをする俳優である。(You are all supporting actors.)

なんですが、これをちょっと「自意識」という観点から考えてみたいと思います。

 

インプロって、人前でパフォーマンスしたりもするんですよ…それってちょっと普通はビビりませんか?

で、あろうことか、即興でやるんですよ(それがインプロなんですが)

これはもう、正気の沙汰ではありませんので、そのビビりようっていったら、想像するだけでも…(笑)

 

確か、このビビることに関して、なにかのものの本には「太古の昔、人間は生身ではそれほど強い種族ではなかった。それが故に他の肉食動物に獲物ととしてターゲティングされて「見られる」ことは、捕食されて…しまうことのプレリュードだった。

という訳で「見られる」ことは生命の危機と原始的に結びついた「やべえよ」感が今でも付きまとうのである」的なことが書いてあった記憶があります。

 

なもんで、この名残で「見られている」ということに意識が向かうと、途端に緊張してしまうんだとかなんとか…。

 

まあ、この話の真偽は別として、自分がどう見られているか、言い換えれば「意識のベクトルが自分に向いている(それも過剰に)」のが、いわゆる「自意識過剰」状態で、こうなると緊張してしまう人が多いのではないでしょうか?
(「え?…俺は別に…?」って人は、それまでの経験でそれを克服してきた(慣れてきた)か、そもそも危機感を感じるセンサーがぶっ壊れてるか、危機意識が変容してしまってある種の露出狂的になっているか、はたまた…まぁ、いくらかの割合でいるみたいです)*1

 

人前で表現すること(≒パフォーマンス)に不安や抵抗を感じる人は、たいてい自意識過剰だったりします。意識が自分に向き過ぎているのです。

そんな時は相手に意識を向け、しかも助けるという目的を持つことで、自分が持っている意識の総量に占める自分に対する割合を減らすことになり、不安を和らげることができます。

自分に意識が向けば向くほど、どうなっているのかが気になり、でも確認はなかなか出来ないから不安になるのです。

例えば自分に意識を8割向けながら、相手にも意識を8割向けることは、意識の総量からして、普通は出来ません。

 

なわけで、インプロ(に限らずパフォーマンスをすること)の初心者は、意識を外に開いて、相手に向けましょう。そして、サポートを心がけましょう。

 

このあたりのことについて、お勧めのシアターゲーム(しばしばインプロ・ゲームと混同されたり、同一視されたりする…)があります。

(厳密にはシアターゲームはインプロなのか、という議論があります。今日の日本ではインプロ・ゲームといいながら、それってシアターゲームだよね?とか、マイズナ―のエクササイズだよね?みたいなのが結構あって、だいたいそういうのをインプロ・ゲームとして紹介される場合は、本チャンのものの残滓に近いものになっている気がするのは、僕だけですか?)

こちらの本の比較的最初に載っている「さらす(Exposure)」というゲームです。

導入のゲームということもあって(?)めちゃくちゃ詳しく(というかこの本は全体的にそうですが)書いてあるのですが、たぶん普通の人は一読してもピンとこないかもしれません。が、ひとたび実際に演ってみると、途端に「ああ、なるほど、そういう感じね!」となること請け合いなので、ぜひ実演してみましょう。

 

また、「自意識」とどう付き合ってリラックスするか、については、これもまた鴻上さんの本なのですが、こちらなんかがお勧めです。

身体によるリラックスから入って、スタニスラフスキーの方法論の中の「与えられた状況」を嚙み砕いて、分かりやすく説明されています。

 

一方で、表現欲旺盛で(役者志望だった僕なんかはいまだにこの気があります)、どちらかというと目立ったり注目されたりすることに快感を覚えてしまった悲しい生き物もいます。

そして彼らが陥りがちなのが「どうにかして観ている人に印象を残してやろう(よく爪痕を残す、とかも言われます)」という思考です(特に経験が浅くて未熟だとこの思考に陥りがちです)。

 

あるいはあまり表現することにこれまでの人生で触れてこなった人が、インプロを知って、いわゆるYES ANDが推奨される場において(これも本当は…やめましょう)、初めて(?)賞賛に近い注目を浴びたりした場合に、快感ホルモンが脳内を駆け巡る経験をした人も、この予備軍な気がします(笑)。

 

こうした「俺が、私が!」的な人は、インプロでは(お客さんの印象に残って)一時的にうまくいく(ように思える)ことがあっても、長い目で見るとあんまりうまくいかないような気がします。

それは(僕がここで述べている)インプロが、本質的に「Communal art form(協同芸術形態)」だからです。

(これもどこかのインプロの洋書に書いてあって、良い表現だと感じて記憶に残っているのですが、どの本だか、失念しました…。いろんなインプロの洋書を読んでいると、こうした「ああ、そういう表現をするのか、なるほど、しっくりくる!」ってのがいっぱいあります)

 

そこでは、「One for All, All for One.」が原則で、「All for just Myself.」になってしまうと途端に破綻しやすくなります。

 

これをして『いいインプロバイザーの条件は、「この人と演ると自分が素敵に感じられ、うまくなった気がするし、ぜひまた一緒に演りたい」と思われることだ」と言われたりします。

 

まあ、でもこれは別にインプロに限ったことではないと思いますが…。

 

余談ですが、「最高の男とのデート」的な小話?がありまして、それはこんな感じだったと記憶しています。

ーーー

とある恋多き女が、今までで印象に残っているデートについて語った。

女『彼は今までデートした中で最高の男だと思ったわ』

聞き手『では、それが最高のデートだったのですね?』

女『いいえ、それは2番目に最高のデートだったわ』

聞『では、最高のデートとはどんなお相手だったのでしょうか?』

女『そうね。彼とのデートで、やっぱり私は最高の女だって思ったわ』

ーーー

とかなんとか。これを知った時に、ああなんか、人間の本質ってこうなんだろうなぁって感じました。

 

おまけのポストと言いつつ、この時点でまた既に4000字近くになっているので、そろそろまとめに入りますが…

 

つまりは、人前で表現することに抵抗があってちょっとビビってしまう人も、表現欲が旺盛で、つい目立ってやろうとしてしまう人も

・あなた達は、全員が、サポートをする俳優である。(You are all supporting actors.)

をまずは意識すれば、素敵なインプロが生まれてくる第一歩になると僕は思っているので、その意味で、「これが最初に来ていることが、それだけ大事で、だからこそこの位置にあるんだろうなぁ」と勝手に勘ぐっております。

 

ビビりが緩和されて、インプロの本来的な形態である「Communal art form(協同芸術形態)」に向かう取っ掛かりになるわけですから、これを念頭に置くだけで、あなたは既にインプロ・マスターへの第一歩を踏み出したも同然です。(しかしその道のりは長く(されど楽しく)、僕にはまだその行方が見えません…)

 

スポーリンの『Get out of the head, into the space』も、場に共演者がいた場合は、近しいことが当てはまる気がするので、無関係ではないでしょう。

これもまた余談ですが、楽しくインプロをやりたい!っていうだけならいいんですが、やっぱもっと深いところもやりたいってなってくると、スポーリンのシアターゲームはめちゃくちゃお勧めです。特に相手や場に対する意識の向け方、置き方(≒焦点≒フォーカス)から得られるものは多く、やるとやらないでは格段に違いが出るので、その場のリアリティ(真実味)が断然違ったものになってきます。実は僕がインプロ・ゲームのワークショップをする際にも(参加者が比較的思考寄りの場合は得に)、シアターゲームをアレンジしたものを最初に導入することが多いです。こうすることで一気に想像の世界に身を置くことが容易になってくることが経験上多いからです。

 

で、サポートするにあたっては、やはり

・聴くこと(LISTEN)

がめちゃくちゃ重要になってきます(しつこい?)

これができてないと、「え?そこ?」っていう明後日のサポートをすることになるからです。
(まあその齟齬がトリガーになって、お互いにとっても未知に行けることは多々あるし、それがインプロの醍醐味の一つだとは思っていますが、さすがに毎度毎度明後日なことをされると厳しいですから…(ったのは僕の力不足???))

 

なので、最後の締めとして、しかも大文字で書かれていたりする訳です(僕の勝手な推測ですが)。

 

とまあ、案の定、長々と書いてきてしまいましたが、初っ端にするべきことが提示され、締めにその肝を持ってくるこの並びは、本質をつかんでないとなかなかにできない芸当だと思うので、感服しっぱなしな訳です。

 

と、やたらとDel Closeのことを褒めまくったりしてきている印象がありますが、僕がインプロをするにあたってはやっぱりこだわりたいストーリーテリングについては、Keithのこともかなり参考にしています。

とはいえ、結局あれは脚本理論に基づくところが多く(Keith自体がロンドンのロイヤルコートシアターで働いていた経験があるので、さもありなんですが)、であればその元になる脚本論自体を知ったほうがもっと濃いものが手に入るのでは?と安直に考え、その分野の本を読みまくっていた時期もありました。

↓こちらの<脚本術/理論>にその本が列記されています。

hechapprin.hatenablog.com

 

結果的に、ストーリーテリングについても、さらに深く理解できた気がしますし(そのお陰で直近までのインプロお休み期に入る前に取り組んでいたFull‐Lengthのインプロにも大いに役立ちました)「ふむふむ、Kiethがああ言ってるのは、これを念頭に置いてるからなんだろうな」ということも推測でき、とても為になったので、凝り性の人は、ぜひこの書籍リストを参考になさってください(笑)

これもお勧めだよ!というのがあれば、ぜひ教えてください。

 

と、おまけのつもりがまた望外に長くなったので、このポストはこの辺でお開きにして、次回は本筋に戻ったポストをしたいと思います。(出来るかな…)

*1:僕もちょっとこっちよりですが…。

美しき世界 ~インプロな空間~

美しき世界 僕たちを包んで
昨日も明日もない 今だけがここにあるよ
溢れる ラ…ラ…ラ…

B'z『美しき世界』

 

さて、今回は(前回のポストで)「僕にとって欠かせないテーマであるインプロの「共創」あるいは僕のインプロのおけるこだわりについて」書くとしていましたが、よくよく考えたら、それがすなわち、前々回の投稿の最後で深掘りするとしたうちの1つ目

1.インプロにおいて大切な心構えが浸透し、体現(あるいは、体現しようと)されている場である

についてでもありました。

 

ということで、今回は、それって具体的にどんな場なの?を見ていきましょう。

 

一応ですが、ここでいう「インプロにおいて大切な」というのは、あくまで僕の意見なので(といっても乱読したインプロの洋書群の内容からは大きく外れてはいませんが)、そうじゃないという人もいるでしょう。

 

「これがインプロだ!」というのは、その発祥と発展からして、一概にいえないものになっているのが現状でしょう(いわゆる流派のようなものを想像してもらうと分かりやすいかと)

 

僕はこれまでの知識と経験から、あえてというとDel Closeが志向したインプロ成分が多めな気がしているので、軽くこちらの本なども参照にしながら、話を進めていこうと思います。

※ちなみにここでの「Comedy」は一般的な日本人が思うコメディとは多分ちょっと違います。

 

 

さて、では何がインプロにおいて大切と僕が考えるかというと、これも全てを挙げていたらまたこの記事が長くなってしまうので、ここではポイントを3つに絞ってみます。

 

僕がインプロで大切だと思うこと

①Agreement(合意)がとれている

 このblogでは繰り返し登場していますが、先の本にも、以下のような文言があり、やはりこれは外せません。

*Agreement is the only rule that cannot be broken.
(合意は破ることのできない唯一のルールである。)

KEY POINTS FOR CHAPTER TWO より

 このためには「聴けている(Listen)」ことが重要になってきます。そして、そうするためには「サポート」をする姿勢も必要となってきます。これはある意味で「相手を尊重」している状態だと成されやすいかと思います。

これにやや関連して、相手との向き合い方で

*Treat others as if they are poets, geniuses and artists,
and they will be.
(共演者を詩人、天才、芸術家であるかのように扱いなさい、 
そうすれば、彼らは(実際に)詩人、天才、芸術家(であるかのよう)になる。)

KEY POINTS FOR CHAPTER THREE より

ということもあり、実際に僕にとってもこれは実感値があるので、お勧めです。

 

②相手のみならず自分も尊重している

アグリーメントを成すために、相手を尊重し、サポートを心がけ、聴くことに注意を払うことは非常に大切ですが、それだけでは片手落ちな気がします。

現状の日本で、キース・ジョンストンのインプロを謳う人たちはよく「Give your partner a good time.(相手に素敵な時間を提供する)」や「Make your partner look good.(相手を素敵に見せる)」を持ち出してくる印象がありますが、先に挙げた本の中にも、これに類する記述があります。

ただし、こちらは

*The best way to look good is to make your fellow players look good.
(自分を素敵に見せる最善の方法は、共演者を素敵に見せることだ。)

KEY POINTS FOR CHAPTER THREE より

となっています。

煩悩まみれでいつまで経っても我欲が捨てきれない僕には、こちらの方がしっくりきます。だって共演者だけじゃなくて、自分だって素敵に見られたいもん…。

というのは、半分冗談ですが、半分本気です。

でも結果的に両方が素敵に見られるんだから、やっぱりこっちの方がよくないかなぁ…。

 

僕ですら(?)一時期「相手の為に、相手の為に」としていたあまり「自分はどうしたいか?というウチなる声(inner voice)」に耳を傾けていないときがありました。

その時はちょっと抜け殻のようで、インプロがつまらなくなるというよりは、何も感じず、ただこなしているという感覚でした(ある程度技術が身につけば、表面的にはこなせるようになるのはどの分野でも同じかもです)

「相手の為に」が「自分を滅して」と結びついて、それが行き過ぎてしまうと、変に謙遜して自分の想いを抑えたり、しまいには卑屈にすらなってしまうことも、人によっては起こるようです。

そうしたときは往々にして、表現も縮こまりがちで、逆に共演者に気を使わせてしまい、お互いに大胆な表現や行動がしづらくなってしまうことも無きにしも非ずです。

 

というわけで、相手を尊重することと、自分のことも尊重すること、これが良い塩梅のバランスでなされていると、お互いに不要な気を遣うことなく、自然なかかわりをもってインプロに臨むことが出来る、と僕は考えています。
(何事もバランスが大切ですね…自戒)

 
③共にイマココにいて興じられている

①②とくれば、最後はそう、これですね。

こちらで書いたものですね。

hechapprin.hatenablog.com

 

①と②を生真面目に力んでしてるのではなく、③を含んで、それぞれが自分からこれをしたい!という想いがあり、無理なく自然に軽やかな状態で、インプロがなされている。

 

こういう場であれば、互いが自らをいかんなく発揮し、それを支え合うことで安心感も生まれ、普段ならちょっと躊躇して「やめておこうかな」となることにも、なんだか不思議と挑むことができ

意外と上手くいっちゃったりするもんだから、今度は余裕ができてさらにって感じで、いつもよりも色んなことを試して遊んでみたり、なんてことがいつの間にやら行えてたりします。

 

これを某国民的アニメのように言うと…

 

互いに「愛」をもって接しているうちに、「勇気」が自然と湧いてきて、そこに「遊び心」がスパイスを加えている状態が生成されている場

 

となるかと思います。

 

そんでもってこれって、僕にはとっても美しく思えます。

 

これをして僕は、インプロで大切なのは『愛と勇気と遊び心』と言っていたりします。

 

そうした場では
「不確定性に対して、互いに協力して、想像力を駆使して挑み、まだ見ぬなにかを、楽しみながら、創造していくこと」
がイージーピージーに感じられることでしょう。

 

いわゆる『共創』がなされている場って、こういうところなんじゃないかと愚考します。

 

Del Closeの智慧 feat. Trust(信頼) 

と、ここで良い機会なので、Del Closeの成分多めな僕は、これに関連して、またもや彼の智慧をこちらに開陳しようと思います。

 

※何度か出てきているこちらの本からです

 

以下が、Del Closeが「ハロルド」という「ロングフォーム」(比較的長い時間のパフォーマンスをするスタイル)の形式の一つで、一般原則として示したものです。

 

※文字の色に注目(僕による色付けです)

「デルの<ハロルド>における一般原則(Del's General Principles for the Harold)」

・あなた達は、全員が、サポートをする俳優である。(You are all supporting actors.)

・常に自分の衝動に気を配ること。(Always check your impulses.)

・”必要とされ”ない限り、決してシーン〔場面〕には入らないこと。(Never enter a scene unless you are

NEEDED.)

・共演している俳優を救うこと。作品については心配しないこと。(Save your fellow actor, don`t worry about the piece.)

・第一に為すべきことは、サポートをすることである。(Your prime responsibility is to support.)

・いかなるときでも、知性の限りを尽くすこと。(Work at the top of your brains at all times.)

・観客を過小評価したり、見下したりしないこと。(Never underestimate or condescend to your audience.)

・ジョークは不要(ジョークだと明言されている場合を除く)。(No jokes (unless it is tipped in front that it is a joke.)

・信頼すること...仲間の俳優があなたをサポートしてくれると信頼すること。彼らに重荷を負わせたとしても、彼らはなんとかすると信じること。自分自身を信頼すること。(Trust... trust your fellow actors to support you; trust them to come through if you lay something heavy on them; trust yourself.)

・起きていることの判断を避けること。ただし、(シーンに登場するか、シーンを終わりにするか、による)助けが必要か、次に続くのは何が最善か、あるいは、もしサポートが求められたら、どう想像力でサポートできるかは除く。(Avoid judging what is going down except in terms of whether it needs help (either by entering or cutting), what can best follow, or how you can support it imaginatively if your support is called for.

・聴くこと(LISTEN)

青:相手への気遣い≒「愛」と(事故ってしまうこともあるけどそれでも)実行する「勇気」
緑:自分自身(の内なる声)への気遣い≒「愛」
赤:「Trust(信頼)」 ※後述
紫:相手と自分への「愛」(Agreementの素)

 

という感じで色付けしてみました(無理やりかもですが…)

 

ここで、こちらもインプロでよく大切だと言われる「Trust(信頼する)」にちょっと着目してみましょう。

 

実に具体的に「何を信頼するのか」について書かれていて、しかも順番がまたシブいです。。。軽く私のコメントを入れますので解釈の助けにしてください(なるかな?)

(以下)

(1)仲間の俳優があなたをサポートしてくれる

   ⇒まずは最初にこれを信頼するところから始まりますね。

   信頼を裏切らないように、自分も相手をサポートしましょう(笑)

(2)彼らに重荷を負わせたとしても、彼らはなんとかする

   ⇒あいつなら大丈夫、きっとうまくやってくれるさ!って感じでしょうか。

   先に紹介した「共演者を詩人、天才、芸術家であるかのように扱う」ともつながりますね。

(3)自分自身を

   ⇒自分も自分の共演者ですからね。忘れずに信頼しましょう。

   インプロバイザーは俳優でありながら、脚本家や演出家などの役割も同時に担うので、彼らが俳優としての自分を信じると読み替えてもいいかもです。

 

どうですか、これ…シビれません???

 

良くインプロの洋書を読んでいると「Trust」が大切と出てきますが、いまいち意味が広すぎて漠然としていました。

かといってむやみやたらと信頼するのは妄信に繋がる気がして、モヤモヤしている時期がありました。

が、こうして具体的にその対象を、順番に意味を持たせて書いてあると、より理解が深まる気がしました。

 

まあ、取り違えや拡大解釈もあるかと思うので「私はこう思うよ」ってのがあれば、ぜひ聞かせてください。

 

ほかにも触れたいことがあるんですが、例によって一記事が長くなってしまったので、このあと「おまけ」的な短い記事を作って、そこで述べたいと思います。

 

と、ながながと述べてきましたが、こうした信頼が成立しながら、愛と勇気と遊び心に溢れる場、これをもってして僕は「インプロな空間」と考え、呼んでいます。

 

そこでは、「競争」ではなく「共創」がとめどなく繰り広げられていくこと間違いなしです😊

 

※みなさんのご意見もぜひ、お気軽にお聞かせ願います!

 

 

邂逅の回顧録 ~A Retrospective of an Encounter~

今回はちょっと閑話休題的に、「僕とインプロとの出会い」について、以前に書いたblogをリライトしてお届けしようと思います。

 

これが僕の原風景の一つで、その後のインプロへの取り組みへを、ある意味方向づけたものとなっています。

 

それでは、ご笑覧ください。

 

インプロとの出会い

僕がインプロに初めて出会ったのは、新卒で入社した外資系の人材アセスメント会社を1年(3月末)で退社し、次の年度から通うことにした俳優の養成所ででした。

当時は今から大体20年ぐらい前なので、インプロを扱っていたのは非常に先進的でした。またこの養成所はインプロの他に、メソッド演技術(NYのアクターズスタジオのあれです)〔と、海外の演技術?をもう一つ〕を扱っていて、「世界に通用する俳優を育てる!」みたいな触れ込みだった記憶があります。

当時はバイトをしながら、週5~6で養成所のレッスンを4時間/回ぐらい受けていましたから、もう本当に芝居づけな毎日を過ごしていました。

その養成所でのインプロのレッスンは、今でいう「インプロ・ゲーム(含むシアター・ゲーム)」をそこの講師の理解の元、やり方の説明を受けては、どんどん色んなものをこなしていく感じでした。

ただし、このときはいわゆるインプロの哲学(orマインド)の説明もありませんでしたし、一緒にやる仲間も、これから表現の世界で生きていこうと志す面々だったので、

みんながみんなではないにせよ、やる気のあるやつらは特に、往々にして「面白いことをして目立ってやろう」だったり「なんとかして爪痕(印象)を残してやろう」というスタンスでインプロのレッスンを受けていて、僕もそんなスタンス(むしろ筆頭に近い?)で挑んでいました。

それはそれで楽しかったし、そもそものこの養成所でのインプロの位置づけが、あくまで脚本のある演劇での芝居をする際に「より活き活きと柔軟に演技ができるようになるための有用な手法」だったので、致し方なしかなぁとは思うし、

その経験を経たからこそ見えたり分かったりすることもあるので、今では必要なプロセスだったかなぁと思えています。

そして、そんな養成所でのレッスンを受けていて、僕にとって衝撃的なことが二つありました。

 

衝撃を受けたこと、その1(優等生、現実に気づく)

まず一つ目、それは「とある台本の一場面を読み込んできて、みんなの前で実演してみる」というレッスンでの、

当時の講師の「へちゃの演技は”優等生の演技”だな」という言葉でした。 ここでいう「優等生」とは決していい意味ではなく、むしろマイナスな意味の言葉です。

どういうことかというと「セリフはしっかり覚えている」「演技のプランもしっかり脚本に沿ったものを用意してきている」「その演技が成立し、脚本を表現するのに適したキャラクターづくりをしている」けど、『それを独りでやっている』でした。

正直、それの何が悪いのか分かりませんでした。むしろ、相手役はセリフをまだ覚えても来てなければ、脚本の理解も浅いし(というか、自分の出番だけを読んできていて、全体を把握していない)、キャラクターだってブレブレでした(少なくとも僕にはそう思えました)。

それなのに、講師に注意されたのは僕の方でした。「え?なんで?俺はやることちゃんとやってきてるのに?むしろやってきてない相手役の方がダメなんじゃないの?」と思っていたら、次の言葉で意味が分かりました。いわく…

「へちゃは相手が誰だって、どんな演技をしてきたって、今と同じことをするだろ?自分で作り込んできたことを。でもな、演技ってのは”相手ありき”なんだよ。相手とのやり取りから生まれてくるものなんだから。へちゃのやってることは相手がいないの。だからへちゃのやってるのは演技じゃなくて、”プラン”なんだよ。そこからはリアリティは生まれない」でした。

僕は当時、この”台本の実演”のレッスンは、「発表」の場であり、如何に用意周到に準備してきたか、そしてそれをブレることなく完遂できるか、という「自分の優位性を示す」場と位置付けていました。

しかしそうではありませんでした。そこは、共演者がどんな状態であれ、”一緒につくっていく「創造」の場”だったのです。

それまで、演技、特に舞台での演技では、公演ともなれば、何度も同じ演目を上演するわけで、回ごとに内容が変わって(ブレて)しまうことは、観客に対する公平性を欠くものだし、望ましいのは回が違っても同じ内容のものを観客に提示できることだと思っていたので、

そのブレがなるべく少なくなるように、全員が稽古を重ね、公演中は同じ内容のことを”あたかも今まさに起きているかのように”演じられることが至上だし、そのためには高いレベルで作り込まれたものを精密に再現することが必須、と考えていましたが、

それは結局、”優等生的な考え方”だったようです。

確かに、上記の考え方はある意味では間違いとまではいえないけれど、それだけでは不十分で、各回の内容を高い水準で標準化しながらも、その上で「舞台上でその時にそのキャラクターたちで、その場を感じ取りながら、有機的なやりとりをすることでリアリティが生まれる」それなくして『息をもつかせぬ、まばたきも出来ない演劇』は成し得ない、とのことでした。※『』はこの養成所で目指すもののフレーズ

「そうか、自分ひとりが為すべきことを為すんじゃなくて、相手(みんな)と一緒に、その場にいて、そこから創り出していくことで、成していくものなのか…」と気づくと同時に

「でもそれって、取り扱う変数に自分で制御できないことがすごい混じるし…やってこないやつ(=当時の僕の認識ではダメなやつ)の面倒もこっちがみないといけないってこと?それって理不尽じゃない???

……でも…現実も確かにそうだな。だからこそ、そこにリアリティが宿ったりするのかな?」と、なんとも稚拙な解釈をしたものですが、

それよりもなによりも、なぜか良く分からなかったのですが「なんてチャレンジングで、ワクワクするんだ…これは取り組む価値を感じる!」と、僕の中で飼い慣らされて眠っていた荒ぶる野生がムクムクと起き上がってくるのを感じていました。

 

衝撃を受けたこと、その2(原動力を得て夢想に向かう若者)

 そして二つ目は(もう既にちらっと書いてますが)、このインプロという手法は、この養成所では、脚本のある演技をより活き活きと柔軟にするため、という位置づけでレッスンをしているため、それに必要な部分だけをピックアップしているに過ぎないが、

 欧米ではしっかりと体系化された手法として確立していて、「極めれば、脚本がなくてもその場で1本のお芝居ができる」という説明でした。

 それを聞いたときは「え!?なにそれスゴイ!!もうそれって人類の英知じゃん!?」とやたら興奮したことを憶えています。

 養成所に通っていた当時、講師の刷り込みもあったのか、俳優の力が本当に試されて、誤魔化しがきかないのは舞台演劇であり(映像は見てくれが良ければカメラワークと編集次第で、演技が下手でもなんとかそれなりに仕上がる、とのこと)、この世界に飛び込んだからには、自分が目指すべきものは舞台俳優だ、と思ってはいたものの

 一方で、元来、舞台というものは、非常に時間と労力がかかるもので、その割に利益はほとんど見込めないし(やり方はあるでしょうが)、生き馬の目を抜く猛者たちの世界で抜きんでることは可能性として非常に低く、じゃあどうやって食っていくために稼いでいくのか、ということに頭を悩ませていた僕にとっては、天啓を受けた気がしたものです。

 しかもまだ当時は、インプロ自体の知名度が日本においては無いに等しいものであり、これをいち早く身につけて公演を打てば、話題性も高いだろうし、しかも毎回違う内容になるんだからリピートも見込みやすく、その分、通常の舞台演劇よりも利益が見込めるのではないか?との算段がありました。

 さらに当時の浅はかな知識でも、その頃やっと日本で話題になりつつあったコーチングという手法との親和性も高いし(CTPのプログラムを50万払って受けてたりしました…)、コミュニケーション能力の向上といった名目で、ワークショップなんかを開けば、公演以外での収益も見込めそうだ!なんて夢想していました。

 しかし、肝心のインプロの体系化された手法を、どこで身につければいいのか分かりませんでしたし(ネット全盛の今とは全然違う状況でした)、まだ20代そこそこの若造が、たかが養成所を出たばっかりで、何ができるとも思いませんでした。

 そこで、2年間の養成所期間を終えた後に、インプロの手法を更に学ぶため、そして年齢の若さを箔をつけることで補おうと、海外に1年間の演劇遊学をしにいこうと思いたち、鴻上さんのドンキホーテのロンドン?『ロンドンデイズ』の愛読者だった僕は、かのシェイクスピアを生み、憧れのシャーロック・ホームズの舞台でもある、英国はロンドンに赴いたのでした。*1

 

余談ですが、当時の滞在記録を、今はなき?ホームページビルダーで作成しては公開しており、そのタイトルの一部には「へっちゃLIVE」という言葉を入れていて、結構気に入っていました。

それが今日のへっちゃらんど構想、へっちゃらインプロなどのネーミングの元ネタだったりします。

 

次回は、上記の原体験もあり、今では僕にとって欠かせないテーマであるインプロの「共創」あるいは僕のインプロのおけるこだわりについて書いてみようと思います。

 

その次か、そのまた次ぐらいに、以前に予定していた

インプロは適切に活用されれば、人の変化や発達に大いに寄与するチカラがあるとい うことである。ここでいう適切にというのは、以下2つの要件を満たすものと考える。
1.インプロにおいて大切な心構えが浸透し、体現(あるいは、体現しようと)されている場である
2.指導者が対象者の状態を見極め、狙いに応じて適切なインプロ・ゲームを提示し、意図を持った説明ができる

への考察に戻ってくる予定です。

*1:この先の、へっちゃら演劇留学編もいつか書き起こしたいです。

へっちゃラフスケッチ ~インプロ・ゲームへの挑み方~

※「へっちゃラフスケッチ」はblogの記事未満のアイデア、あるいは未だはっきりとした形を成していない妄想を含んだ脳内に浮かんできた断片的な何かを、ときにそのまま、ときに少し書きながら考えを進ませて記載した、私的な備忘録です

 

《インプロ・ゲーム考》

 

提示する側(ファシリテーターとか)としては、〜の為、のような意図は欲しいが

 

参加する側(プレイヤーとして)としては、ゲームの仕組みを使って、いかに自分が楽しめて、一緒にやってる人(たち)を喜ばせて、鼓舞させられるか、とかの自分基準での企みを持って挑みたい

(提供する側の意図よりこちらを優先したい)

 

なんだろ、自立してたいのかな?

 

これも一つのTake care of yourself first.かな?

(拡張解釈しがち)

インプロは誰のもの?

今はないものについて考えるときではない。今あるもので、何ができるかを考えるときである。

Now is no time to think of what you do not have. Think of what you can do with that there is.

アーネスト・ヘミングウェイ

という訳で、表題はヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の文字りです。ベル(鐘)の絵に気づきましたか?もし気づけた人はListen(この場合はLookに近いですが…)が鋭い人かもしれません。余談ですが、大学生の時にそれまで受験勉強でタイトルと著者だけ覚えた海外の古典小説をあらかた読み尽くしたつもりですが、ついぞヘミングウェイの『老人と海』は読み切れませんでした。あとメルビルの『白鯨』とトルストイの『戦争と平和』。ドストエフスキーはほぼ読破(『カラマーゾフの兄弟』だけ漫画でだけど…)。お気に入りはスタンダールの『赤と黒』とトマス・マンの『魔の山』です。

 

前回のポスト↓ではAgreementについてで、

hechapprin.hatenablog.com

 

その中で

・YES ANDの前提のような感じでAgreementはすごい大事

・AgreementをするにはListenが大切

・Listenをするには全てを聴くことが重要

といったところを見てきました。

 

特にListenについては、

言葉だけに惑わされず、プレイヤー(演者)が何を求めているのかを読み取る

ということで、それには

「相手の表情/目線/感情/ボディランゲージ/声の調子/間/エネルギーなどなど、場の持つ雰囲気、相手との間に流れるバイブス、テンション、温かみ、et cetera」≒「そのとき、その場にある、ありとあらゆる情報」

をつかむことが大切になってくると、解釈を加えてみました。

 

そして、Agreement(そのためのListen)って、知っていると(かつ扱えるとなお)インプロに限らず、私たちの日常においても役立ちそうなのって、なんとなく想像がつきませんか?みたいなことにもチラッと触れました。

 

実はインプロって、こうした日常においても、なかなかにお役立ちになる技術や概念だったりがテンコ盛りだったりします。

 

とくにステータスなんて概念(ざっくりいうと「力関係」。これも多分どこかで詳しく触れます)は理解して、少し使えるとめちゃくちゃ有用(むしろ悪用厳禁?)だと実感しています。*1

 

まあ、インプロも大きくは演劇の一分野と捉えることも出来ますし、演劇は往々にして人生の写し鏡だったりすることからも、当然といえば当然かもですが*2

 

ところが演劇自体は、日本でも近年はその教育/学習効果に、子供だけでなく大人にも一部では注目が集まっているみたいですが、まだまだ一般的とは言えない状況かと思います。*3

 

実際、ちょっと演劇って、たまに趣味として観に行ったりはすることは仮にあったとしても、なかなか自分でやるってなるとハードルが高いし、どこかちょっと遠い別世界のものって感じがしませんか?

 

僕自身も普段は会社員であくせく*4働いてますし*5実家に帰れば、両親の物わかりのいい*6息子ですし、たまに姪に会えば*7友達に近い伯父さんですし、知らない人が大勢いるところでは、*8お調子者ですし、その場その場で色んな役割を無意識のうちに使い分けています…。

 

ん?役割を…使い分ける???

 

…はい。フリがおそろしく乱暴ですが、ひょっとするとこれを読んでいるあなたも様々な役割を色んな場面や相手によって、使い分けていたりしませんか?

 

長年一緒にいるバートナーの前ではムスッとしてる一方で、久しぶりに遊びに来た孫の前ではデレデレしてみたり…部下の前では偉そうにふんぞり返って時に怒鳴り散らしたりしながら、上司の前では平身低頭でコメツキバッタのようにペコペコしていたり…バイト先では無気力そのもので淡々と時間が過ぎるのを待ちながら、推しの応援ともなると寝る間を惜しんで全力で準備したり…

 

これらぜんぶ、その役割を、無意識にでも身にまとって、日々を過ごしているとも言えると思います。

 

この役割っていうのは、その状況で期待されている/そう在りたいと思うことに沿って、あなた自身が振る舞うってことで、それはもう、役を演じるってことの相似形と捉えることができそうです。

 

そう考えると、なにも演技は特別なことではなく、日々僕たちが自然と行っていることと地続きな気がしませんか?(強引?)

 

これをして、かのシェイクスピアは「この世は舞台、人はみな役者(-All the world's a stage, -And all the men and women merely players. )」と『お気に召すまま』で喝破したのではないでしょうか?とか賢ぶってみたい…

 

そういえば僕の敬愛する鴻上さんも近年こんな本を出されていました(いい本なのでちょっとでも興味があればぜひお読みください!)。

 

これなんてサブタイトルがモロですよね。

 

ちなみに僕が強烈にお勧めしたい鴻上さんの本といえば、ずっと書くとは言っていたものの、なかなか続報がなかったこの本がついに出版されました。

 

 

この本の中でも、演劇のワークショップが演劇界以外でも急速に求められ広がっていて、教育界やビジネス界はもとより、一般レベルでも関心が高まっている、とあります。

 

その主な理由は3つが挙がっていますが、その内の1つは、大人たちも抱える人間関係の問題(後の2つは子供たちの遊びと学校教育)です。*9

 

そしてインプロも演劇であるからには(その中でも僕が大切にしている「共創」は特に)、この人間関係を扱うところも多分にあり*10

 

その素敵なところは、これをゲーム形式で遊ぶ感覚で始めることが多いので、楽しみながら、ときに試行錯誤を繰り返して、いろんなケースを経験することができ、それは言ってみれば、日常の予行演習にもなるというところです。

 

そんなこんなで、インプロがうまく作用すると、楽しんで遊んでいたら、そこで獲得/解きほぐされた思考や行動の様式が日常に転移して定着していた、なんてこともままあったりします。

 

「いやいや、それはインプロ(広くは演劇)をやっている人のひいき目でしょ?そんなこと実際にあるの?」と思われる方もいるかもしれませんので、ここで一つ実例を示したいと思います。

 

といっても、僭越ながらそれは僕の執筆した「インプロが促す発達」の内容だったりするのですが…

 

※こちらの本です(隙あらば宣伝)

 

ここで僕の執筆した内容は、大掴みにいうと「とある大学の演劇部にインプロを演技のトレーニングの一環として指導していたら、図らずもその大学生たちが発達する(思考や行動の様式が変容する)ことも副次的に起き、かつ、それが定着していた」という論旨の、インタビューを元にしたレポートなのですが

 

そのインタビューへの回答の一部を今話題のChatGPTに回答(インプロをしてみての感想)のまとめと評価をさせてみたところ

この即興演劇学習者の感想は、自己効力感(自身が問題を解決できるという信念)と、他者への信頼が育まれたことを示しています。また、「できるとまではいかないけど、失敗してもまぁ先輩がフォローしてくれるから大丈夫か」というコメントは、安全な環境の中でのリスク取りが自信に繋がることを示唆しています。

重要な学びとして挙げられた要素は、観察力、相手への理解と受容、自己表現、失敗を恐れない勇気など、コミュニケーションスキルと自己理解の向上につながる要素です。また、失敗を経験することの大切さを理解し、それによって成長する姿勢も感じられます。

全体として、即興演劇はこの学習者に対して自身の能力と他者への信頼を育む場となり、積極的な行動へのモチベーションと柔軟な思考を促したと言えます。これらはすべて人間関係や職場など、人生のさまざまな場面で役立つ重要なスキルです。

と、なんかすごいいい感じのことが列記されてるし、「人生のさまざまな場面で役立つ」とまで書かれてきました!?

 

演劇が日常と地続きであり、その内容が人生のさまざまな場面で役立つのならば、これはもうインプロは、現代を生きるみなさんにとってのものであると言っても、過言でもないような気がしないでもないです。

 

はい、インプロとは「みんなのもの」なのです!(強引?)

 

だから…一緒にやろ?(子犬のような眼)

 

そういえば、こんなタイトルのインプロの洋書もあります。

※この本はインプロで良いシーンを作るために、前半は理論編、後半は実践編になっていますが、その実践編はほとんどゲームとなっています*11

 

そして繰り返しになりますが、インプロはその初歩としてはゲーム形式で親しむことが多く、楽しみながら、というか遊びながら、学んでいくことになります。

 

ちなみに先の本の中で、鴻上さんはゲーム*12について、こんな解釈を記しています。

 

*13

 

また鴻上さんは先の本の中で「ゲーム」と「遊びと学び」について

ゲームは、学びと遊びを区別しません。本当の学びは遊びでもあるのです。

と書いています。

 

これはゲームによる学びの定着性を示唆しているようにも思えます。

 

 

 

 

また、英語の「play」は日本語で「遊ぶ」ですが「演じる」でもあります。ここら辺も本質的には遊ぶことが演じることと違わないことを表しているのかも知れません。

 

その意味ではインプロは「即興演劇」と訳されることも多いですが、特に「インプロ・ゲーム」の場合は、「即興遊戯」と訳したほうがしっくりくる場合も多いと考えています。

 

ただし、インプロを学び(発達/思考行動の様式変容)に活用する際の注意点として、僕はその執筆の最後のまとめの中に

インプロは適切に活用されれば、人の変化や発達に大いに寄与するチカラがあるとい うことである。
ここでいう適切にというのは、以下2つの要件を満たすものと考える。

1.インプロにおいて大切な心構えが浸透し、体現(あるいは、体現しようと)されている場である

2.指導者が対象者の状態を見極め、狙いに応じて適切なインプロ・ゲームを提示し、意図を持った説明ができる

ということにも触れておきました。

 

次回はこのことについて、もう少し深掘りしてみたいと思います。

*1:何処かの何かで、これの扱いが上手い先生は、生徒たちと一緒に仲良くふざけ合ったりもできながら、ビシッとするときはちゃんということを聞かせられる的なことを読んだ気がします。場を扱う人たちにとっては、場を緩めると締めるというと分かりやすいでしょうか。それに関連するスキルと思われます

*2:もちろん演劇という虚構の世界で繰り広げられるからこそ、普段よりも大胆になれたり、日常だと社会規範的/倫理的に許されないことも行われたりもしますが、それもまた意味があることだとも思います

*3:僕が20年前!?に留学した英国(ロンドン)などではドラマ教育なるものが盛んで(と聞いたり読んだりしたことが…ご興味ある方は、例えばDIE(Drama in Education)とかを調べると良いかもです。米国だったらクリエイティブ・ドラマかな?)日本でもそれを扱っているところがあるようです。

*4:かどうかはおいておいて

*5:FIREしたい!

*6:だいぶ脛は齧ったけど

*7:ちょっと癖が強いけど、ゲームやら民俗学やら都市伝説やらの話ができる

*8:やたらはしゃぎ回る

*9:この本で扱っているゲームは、シアターゲームと書かれていますが、ここでのシアターゲームはインプロとして扱っているところも多く、本質的には通底するところも多いため、大きくはインプロ・ゲームと呼んでも差し支えないと考えます。なにをもってインプロ・ゲームと呼ぶかは、また別の機会に考察してみる予定です。

*10:それだけでもないですが、その他の部分も結局は人間関係となんらかの関係があります…ややこしいな

*11:少しメソッドの五感(感覚)の記憶の要素の内容もあります

*12:この本で扱っているのはシアターゲームとされていますが、インプロ・ゲームはシアターゲームを取り込んでいるところもあるので、以下の文面のゲームはインプロ・ゲームと読み替え可能と思います。

*13:ゲーム形式で行われることが重要なポイントです。無条件で楽しさが生まれます。ゲームをうまく進めたり、勝つためには、同時に観察力も求められます。表現のために最も必要な集中力と観察力を、ゲームで身につけられるのです。また、一人でやっていては気づかないことが、集団でやることで見えてきます。ほかの人の表現を見たり、他の人から反応をもらったりすることで、自分がやっていることが初めて明確にわかるのです。

場の歌を聴け 〜Agreement(合意)の詳細と僕のこだわり〜

 

前回のポスト(↓)では


軽く触れた「Agreement(合意)」ですが、今回はもう少し詳しく見ていこうと思います。

 

前回に挙げた3つのポイントとしては、

  • Agreementは状況に対して合意すること
  • プレイヤー(演者)間でAgreementがされていれば、キャラクター間でNoをしてもOK
  • ”Listen to the music, as well as the words.”

がありました。

 

今回は、僕が「Agreement(合意)」の内容を意訳/抄訳しながら、コメントを差し挟む形式で、詳細を見ていきましょう。

 

(あ、参照書籍はこちら)

 

ここから意訳/抄訳とコメント

 

まずは、インプロで「ルール」とされている?ものの(ここではYes, andやAgreementかな?)筆者の考え方からご紹介します。

 

私は自分のやり方で物事をやってほしいファシストではないので、ルールを教えることはありません。私が教えるルールというものは、(インプロという)芸術形態がどうすれば上手く行くかを理解するための土台となるものです。

ステージで上手く行く技術が分かれば、もうルールとしては考えなくなります。単にどうすれば良い即興演技者になるかが分かるだけです。

ここで「ルール」という言葉を「道具」という言葉に置き換えてみましょう。ステージでの即興演技を成功させるための道具の1つが、同意です。

とあります。

 

まあ、つまり「ルール」(とされるもの)は使いようってことでしょうか?

また「道具(tool)」という意味合いからは、使い慣れる必要も含まれているように感じます。使い慣れれば便利なものとなるわけです。

そして、その一つとして挙げられているのが「合意」となります。

 

つづいて、

状況への同意は、プレイヤー(演者)たちがシーン内での関係性を見つけるのに役立ちます。

もし同意という道具がなければ、争いになり、シーンは進展しません。(その結果)舞台では何も面白いことが起こりません。

上手くやりたければ、常に同意という道具を使う必要があります。

それがルールだからではなく、ゲームがそのように機能するからです。

とあります。

 

ここで「関係性」という言葉が出てきて、これはインプロにおいて(というか演劇、のみならず日常においても?)重要な要素なのですが、少しテーマからズレるのでここでは一旦スルーします(どこかでまた触れると思います。いやむしろ触れないといけないほど重要な項目です)

 

あとは書いてあるまんまで、どれも重要なのですが、特に重要だと思われるのは最後の部分で、つまりは「ルール」だから「守らないといけない決まりごと」なのではなく、「ゲーム」(ここではインプロ、あるいはそのシーンと思われます)の仕組み自体がそうなっているので、それナシではそもそも成立しない(は言い過ぎ?)ということが述べられていると解しました。

 

つづいて、

もし相手のプレイヤー(演者)に「君は私の父親だ」と言ったなら、彼はあなたの父親なのです。

自分のアイデアを否定されるのは楽しくありません。

私たちの仕事は、お互いのアイデアを尊重することです。

とあります。

 

先にポイントとして、

  • プレイヤー(演者)間でAgreementがされていれば、キャラクター間でNoをしてもOK

と書いたので、少し「アレ?」と思う方がいるかもしれません(いない?)。

 

しかしその後に続けて「アイデアが否定されるのは楽しくない」ということと「お互いのアイデアを尊重すること」が書いてあるのがこの本のニクいところです。

 

というのは、確かに「プレイヤー(演者)間でAgreementがされていれば(このシーンがどんなシーンでお互いが誰と誰で、それぞれが互いをどう思っているか、などが共有されていれば)、キャラクター間でNoをしても」シーン自体は成立するし、進展もすることがままあります。

 

が、そもそも相手のアイデアを不用意に否定することもない(否定されて嬉しい人はあんまりいないと思いますし、だいたいシーンが不必要に複雑になりがちです。※ただし、そのキャラクターの生理として否定する場合は別です)ですし、

 

さらに重要なのは、その行為が「お互いのアイデアを尊重」することから外れることが多いということです。

 

またどこかで扱うと思いますが、インプロをする際には(というかどこでも?)「信頼する/される」ことはとても大事になってきます。

 

そして、「信頼する/される」には、サポート(相手を支持する)という裏打ちが非常に大きな比重を占めていると考えています。

 

すんごくサポートしてくれて「この共演者はどんなことでもYESしよう(オファーを拾おう)としてくれる」という感覚の安心感といったら、ありません。

 

そうした共演者だと「こんなのどうせ伝わらないよな?」とか「これはちょっと分かりづらいよな?」とか「こんなんしたら引かれるかな?」と思って、オファーを躊躇する、ということがどんどんなくなっていきます。

 

となると、普段よりも、より伸び伸びと表現することができて、何処までも一緒に行ける気がしてきます。

 

お互いがそういう状態になると、より興味深く、挑戦的で、意義深いシーンになっていくことが多くあります。

 

なので、Noしてもよい、とはいっても、できることなら(特段の理由がなければ)YESをして行きたいものです。

 

さらに、特に初心者では、おそらく最初の慣れないうちは「これはプレイヤー(演者)としては相手の意図にYESしている(Agreementしている)、けどキャラクターとしてはNoすべきだ/したい」などの判断をしている余裕はないと思われますし

 

仮にその余裕があったとしても、えてしてNoすることの方が簡単(気が楽)で(これはざっくりいうと自分が現状に留まることができて、つまり先の未知に進まなくてよくなるため)

 

逆にYESをすると、ANDによって更なるアイデアを出したり、YESした正当化をしないとシーンが成立しなかったりで、人によっては負荷がかかったりしますが、

 

「ここでどうすればYES(して、かつAND)できるか」というのは創意工夫のしどころですし、

 

最初は不格好でもいいから「どんなものもYESしてみよう」として挑んでいると、少しづつかも知れませんが、どんどんと自分がYES(かつAND)できる幅が広がってきます。

 

いわゆる「YES AND筋」がもりもりとついてくるわけです。

 

そうなると、インプロすることがどんどん面白くなってくるし、自分に自信がついてくるという好循環が生まれてきます(少なくとも僕はそうでした)

 

さらに共演者からは「こいつとやるときの安心感パネェわ」となり、信頼も得ることができていいこと尽くしです。

 

※ここは指導者によっては「自分がYESしたくなかったらYESしなくていい」とか、もっというと「くだらないオファーにまでYESしていると、どんどんシーンがくだらなくなるから、しなくていい」としているところもあるようで、それはそれぞれの指導者の考え方があると思うので、一概にどうこうということはないと思います。

 

例えば前者は「闇雲にYESばかりしていると自分が本当はどうしたいのかが薄れてくるのでそれを呼び覚ます」という意図があると思いますし、それはそれで納得できるところだからです。(後者はくだらないオファーとか判断している奴がくだらなくて、どんなオファーだってYes, andの仕方によっては、素晴らしいオファーになる可能性を秘めているし、そっちを鍛えるように指導しろよ。その指導ができない指導者のお前こそがくだらねえよ!とマジで思います)

 

と、ちょっと僕のこだわりどころなので、話が少しずれて長くなりましたが、またAgreementの記述に戻ると

 

実際には、私たちが同意しているのは、シーン(場面)における状況です。

他所でインプロを学んできた受講生たちは、この点で混乱することがよくあります。

同意の概念は、シーンで言われたことにすべて同意しなければならないと思っているようですが、それは誤解です。

私たちはあなたに自己の誠実さ(integrity)を犠牲にしてステージ上で言われたことにすべて「YES」と言うよう求めているわけではありません。

とあります。

 

ここでいう「シーンにおける状況」というのは「ここが何処で、誰と誰が、何をしている/しようとしている(互いをどう思っている)シーンなのか」ということと思われます。

 

それに対して合意は行われるものだということです。

 

「シーンで言われたことにすべて」だと思うと混乱するというのは、私がインプロを始めたばかりの頃は、頻繁に体験していたことなので、非常によくわかります(笑)

特に、安易にYESばかりしていると、キャラクターとしての一貫性がなくなり、どんなキャラクターなのか(/何を考えているのか)が分からなくなってしまう、というのが良く起こっていました(今思えば、ANDによるキャラクターの一貫性を保つ正当化力が足りなかったのかもしれませんが、それにしても限度があるとも思います)*1

 

ここにある「自己の誠実さ(integrity)」というは、このキャラクターの一貫性も含まれてなくもないかもしれませんが、どちらかというと「(その状況にある、役としての)自分が本当にそう感じて/思っているのか/反応するのか」ということだと思います。よく「Honesty(誠実さ)」という単語でこの本や他の主に米国系のインプロの書籍に登場してくるものと近しい意味だと解しました。ビリー・ジョエルの「Honesty」は名曲ですね。

 

また、もっと言えば、シーンにおける状況に合意するというのは、つまりは

私たちが同意するのは、相手のプレイヤー(演者)が求めていることを提供することであり、それは「No」と言うことに同意することを意味することもあります。

ということで「相手のプレイヤー(演者)が求めていること」を提供することがAgreementであり、

 

以下に、”「No」と言うことに同意することを意味する”の例が出てきますので見てみましょう。

 

いわく

例えば、私が以前ステージ上でおこなったシーンでは、「父親」である共演者を身体的には恐れながら、口頭では食べ物を懇願しました。

このオファーにより、私は彼に対して「意地悪で虐待的な父親であってほしい」と伝えていました。

彼はそれに同意し「今日は食べ物はない。ケージに戻れ」と返してきました。

これは適切な反応でした。

(ところが)これが初心者の即興演技者を混乱させるのです。

なぜこれが適切なのでしょうか?

私は食べ物を求め、彼はそれを断ったのに。

これは対立ではないのですか?…いいえ、同意です。

(父親という)キャラクターとしては「No」と言ったけれど、プレイヤー(演者)は意地悪で虐待的な父親である、という状況に同意していますから。

ということです。

 

これは「プレイヤー(演者)間でAgreementがされていて、キャラクター間でNoをする」の分かりやすい例ですね。

 

ちなみに、このことに関しては、過去にインプロの洋書に書いてあること(主にインプロで重要とされる概念など)を翻訳しながら、僕の考えもコメントするというスタイル(つまりこのポストと同じ?)で私が作っていた動画集の中でも触れていますので、良かったらご笑覧ください。

 

どうやらこのblogはYoutubeを挿入できるっぽいので、この際なので掲載しておきます。それぞれ3~4分程度となります。再生速度1.5倍以上推奨。なお、ここでいうインプロsalonの活動をどうするかは現在検討中です。

 



 

改めて見返してみたところ…「このポストと同じで相変わらず、考えがあっちゃこっちゃいって、いろんなことを一気に言いたがるなぁ…」と感じました。

 

これもいい機会なので、今後はちょこちょこ、この動画集のことも、例えばテーマごとにとかで、いま改めて見てみての所感を添えて、ご紹介するポストも書いていこうかな…。

 

書くより話す方が楽だしノれるから、協力してくれる人が見つかったら、まだ動画も作ってみようかしら…。

 

 

ちなみに、その際の参考書籍はこちら

 

と、唐突に宣伝のようなものを挟みましたが、気を取り直して、続きを見ますと

私たちは言葉だけに惑わされず、プレイヤー(演者)が何を求めているのかを読み取ることを学ばなければなりません。

デルはよく「言葉だけでなく音楽にも耳を傾けなさい(Listen to the music as well as the words.)」と言っていました。

だからこそ私たちはシーンをゆっくり進めます。

言葉の裏にある意味を読み取る時間を取らなければなりません。

私たちは表面上はそう見える/取れることとは違うことを、しばしば言うものです。

とあります。

 

文字面だけの意味にとらわれず、その意味するところ(場合によって意図まで)をつかむ、というはおそらく日常では、なんとなくしている(少なくとも、つもりな)人が多いかと思いますが、それはインプロにおいても同様です。

 

 

 

言われてみれば当たり前かと思いますが、YES ANDを表層的に捉えてしまうと、この当たり前が分からなくなってしまう人も多く見受けられるので、ここは今一度、しつこいですが強調したいところです。

 

あるいは日常でも、これを心がけているけども、いまいち上手く行かないなぁ…なんて人には、インプロは良い試行錯誤/予行演習の仕組みかも知れませんね?

(僕がこれが出来ているかの質問は一切受け付けません)

 

そしてこれを「Listen to the music as well as the words.」なんて、お洒落に表現するところは個人的に痺れます…。

 

あえてこれを言語化するのも野暮な気がしますが、ここでいうmusic(音楽)とは(やや拡大解釈な気もしますが)「相手の表情/目線/感情/ボディランゲージ/声の調子/間/エネルギーなどなど、場の持つ雰囲気、相手との間に流れるバイブス、テンション、温かみ、et cetera」≒「そのとき、その場にある、ありとあらゆる情報」に相当します。

 

また、この「Listen」自体が、インプロでは重要な項目になっているのですが、なんとなく見過ごされがちな気もするので、ここで少し触れておきます。

 

そもそもYES(あるいはNO)しようにも、どんなオファー(情報の提示/が存在)がされているかつかむ(≒Listen)ことが出来なけば、元も子もありませんから。

 

以下の書籍は、僕がいつか為したいと思っている「2人で何の提案もないところから、いきなりお芝居を初めて、めちゃくちゃ見応えのある物語を演じる」という伝説的なデュオのものですが

 

この中に「Listening」という項目があり、そこでは

ステージ上で相手を"Listening"することを妨げる障害を取り除くことが重要だと考えています:

とあり、その障害として

• ビビっている

• シーンがどのように進むかの思い込みがある(先読みしている)

• 面白いことを言ったりすることに考えを巡らせている(この場合には、まったく聴けない)

• 部屋にあまりにも多くの騒音がある

が挙げられています。

 

これらについても、今後、機会を見て考えていきたいです。

 

などと言っていると、思いのほか長いポストになってしまったので、この辺で〆ようと思います。

 

この章では他にも

 

  • 「スローコメディ」や、それに関連して「知性を尽くすこと」
  • そのために「最初の考えを捨てる」こと(これはデルの特徴でキース・ジョンストンとは大きく異なるように見える部分と思います)
  • また「サポート」(ここではミックの(?)「Take care of yourself (first)」のことも絡めて彼らの考え方の記述があります※僕の好きなフレーズもあります)

 

など、まだまだ重要で、僕が語りたくて知って欲しいことが満載なので、これも機会を見てご紹介していきたいと思います。

 

最後に、おさらいとして、Agreementの項目の最後のフレーズを確認して終わりたいと思います。

 

同意とは、キャラクターではなく、プレイヤー(演者)に対してするものである

 

*1:但し先ほど述べたなるべくYESしようとする効用も忘れたくないものです。